僕が海外ボランティアと風俗を同列に見る理由


僕はボランティアを否定しません。僕はやらない善よりやる偽善だと思っています。その行動で救われる人がいるのであれば、動機がどれだけ俗物的なものであっても価値はあるだろうという考え方です。


ただ、ボランティアなんてやるくらいなら、自分がとっとと実業で成功してお金持ちになって寄付しまくった方が喜ぶ人は多いはずなんですよね。合理的に考えると。


だから、わざわざNPOを立ち上げて海外まで飛んで行って、現地の恵まれない子供達のために2年も3年も汗を流し続ける人がいるというのが全く理解できなかったんです。何故わざわざそんな遠回りをするのかと。


海外の現状をその目で見たなら即帰国して、このめちゃくちゃ稼ぎやすい日本で成功してからお金ばら撒いた方がコスパいいですからね。「寄付だとお金の流れがよくわからないから不安」という人は、信頼できる現地人の口座に直接送金したらいいんじゃないですか。手数料かからない暗号通貨とか使って。


ところが、最近わかったんですよ。彼らのボランティアは、弱者を救済するためではなく、自身が得られる体験(快楽)のために行われているということに。そして、それは本質的には風俗で20K支払うのと変わらないのではないかと。


今日は、ボランティアを理解できない人のために、よりボランティアを身近に感じられるような話をしようと思います。


ボランティアとは風俗のようなもの

ボランティア活動で得られる価値は「安心という快楽」なんですよね。自分より「持たない者」と生身で触れ合い、彼らに尽くすことで「豊かな自分」を強く認識できます。後輩にドヤ顔で「ありがたい話」をしてやろうとするのもこのような精神性からくるものです。


また、弱者を救済することは一般的には美徳とされるので、社会的な承認欲求も満たすことができます。これも快楽の一種です。


これが寄付のような間接的な手法で支援するのでは、充分に快楽が得られないわけですよ。実際に自分が会いに行って体を動かさないと彼らは満足できない。わかりやすく言えば、自宅でxvideos観ながら右手動かしてるより、実際にお店に行ってヤりたいというのと一緒です。


これに気づいた時に、海外ボランティアをやる人の気持ちがすごく理解できました。「ああ、それならボランティアをヤるわな。」と。もちろん、彼らを否定しているわけではありませんよ。むしろ、極めて人間的な欲求をさらけ出してる分、どこか応援したくもなります。


だけど、退廃的な物言いをすると、風俗嬢が客の顔なんて覚えていないのと同様、現地の人間からすると自分を救ってくれる日本人なんてどの日本人でもいいわけですよ。心の交流どうこうで勝手に舞い上がっているのはボランティアマンだけです。そこだけは少し彼らに哀れみを覚えます。

そもそも自分は成功できないと思っている

また、「金を稼いでたくさん寄付する方がたくさん社会に貢献できる」ということがわかっていても、そもそも自己肯定感が低すぎて自分が金持ちになるイメージが全く湧かないという人もいます。


彼らは身の丈にあった支援の仕方を模索した結果、ボランティアを選択するんですよね。言ってしまえば、妥協。一流の化学者になって世界の化学史に貢献したかったけど、無理そうだから小学校の理科の先生になって教育者として社会に貢献しようみたいな。


実現できるとは思えない目標を掲げ続けることほど精神を消耗することはないので、目標のダウンサイジングは非常に合理的です。また、その決断には大変な勇気が必要とされることが多いため、僕は妥協ができる人は賞賛に値すると思っています。多くの人は諦めることを諦められずに辛い環境で耐え忍び続けて鬱病になったりしますからね。


ただ、厄介なのは、「妥協した」という事実を認められない人です。


「妥協じゃねえし。俺たちは俺たちができる精一杯のことをやってるだけだし。」


それが妥協っていうんですよw


というか、妥協って悪いことじゃないのに。そうやって突っ張ってる方がダサいよ。しまいには、「海外の現状を知らないからそういうことが言えるんだ。」とかわけのわからない感情論も飛び出してくるし、一層ダサい。うん、ダサい。


さいごに:理想は「ドライな社会貢献」

僕は出来た人間ではないので、家族であればまだしも、自分と何の関係もない弱者の救済とかどうでもいいんですよね。寄付は時々やりますが、それは「救済」のためではなく、「節税」のためです。


僕は「自分のためにやったことがたまたま誰かの役に立ったならラッキー」ぐらいの温度感で社会貢献というものを見ています。救ってあげたいから救うのではなく、自分がやりたいようにやっていたら勝手に誰かが救われてた、というのが理想。


一見、心のない人間のように思われるかもしれないですが、僕はこのスタンスだからこそ、純粋な気持ちで誰かを応援できると思ってるんですよね。なんせ、見返りを一切期待しなくて済むから。


「誰かを豊かにしたい」は、「誰かを自分の思い通りにしたい」の延長です。自分の成功体験の材料に弱者を消費するというのは、時に邪な気持ちを生んでしまうんですよね。


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