「自由人」を名乗ってはいけない本当の理由


「自由」って酷く曖昧な言葉で、人によってものすごく意味が変わるんですよね。


例えばネットワークビジネスの業界では、「大好きな仲間達と海外で乾杯!」みたいな世界観が自由の象徴として語られていますが、僕みたいなコミュ障からすると、それはむしろ「不自由」だったりします。だって、人がわらわらと群がってるところで素の自分なんて出せないもん。


また、ブロガーやアフィリエイター達は、「自分たちは時間と場所にとらわれない自由な働き方をしている」と主張しますが、彼らを見て、「そんなに四六時中パソコンと向かい合って作業しないと稼げないって全然自由じゃないじゃん」と思う人も結構な割合でいます。


ある人にとっての「自由」は、他の誰かにとっての「不自由」なんです。これがもう少し深くわかると、実は本当の自由に近づきますよというお話をします。


「自由」の複雑性

「自由」をもっと抽象的な部分で定義するとすれば、「選択肢の多さ」であると言えます。例えば、収入源が一つだけの人より、収入源を三つ持ってる人の方が自由であるというような考え方です。


毎月30万円の副業収入が見込める人なら、本業でも、「クビにしたけりゃいつでもクビにしてくれて結構」という強気のマインドになれるので、精神的余裕が手に入ります。で、余裕ができるから残業はしないし、有給もフルで使えて、余暇が充実します。


選択肢の数が増えれば増えるほど、特定の何かに依存する必要がなくなり、全てにおいてプライオリティが取れるようになります。これが自由の源泉になるという論理です。


ところが、このように「自由」を定義したとしても、「じゃあ具体的に収入源を何本手に入れてからが自由なの?」という問いに対しては、その中でもそれぞれ答えが違ってくるんですよ。三つくらいあれば十分だろという人もいれば、七つはないと不安だろという人もいます。


そう、「自由」には人それぞれ「基準」が異なるんです。だからこそ、ややこしい。

「自由人」がなぜキモいか

以上の通り、何をもって「自由」とするかという点で、完全に一致している個人同士なんてほとんどの場合存在しません。となると、「自由」とは完全に主観の問題となってきます。


さらに、ここまで言葉が曖昧化すると、言葉自体が危険性を帯びるんですよ。使い所を慎重になる必要性が出てくる。


それは、人は「人によって判断基準が異なるものに対して独自の基準を主張してくる人」に嫌悪感を抱くからです。


例えば、自分で自分のことを「イケメン」だとは言わないじゃないですか。なぜなら、「自分のことをイケメンと思わない人もいる」ということを容易に想像できてしまうから。反感を買うのを恐れるわけですね。


これは「自由」においても同じなんですよ。


Twitterによくいる、「PC一台で海外を旅しながら稼いでる自由人です!」みたいなのに嫌悪感を抱くのは、彼らが「PC一台で海外を旅しながら稼いでるイケメンです!」と言ってるようなものだから。


僕らは彼らに対して実は、「お前の自由がなんぼのもんじゃい」って思ってるんですよ。それには多少の嫉妬も含まれているのでしょうが。


僕は「自由であること」は「イケメンであること」と同じで、他人からそう評価されてはじめて現実化するものと思っています。だから間違っても「俺は自由だー!」とは言いません。


これから、ネット上で散見される「自由人」を「イケメン」に変換して読んでみてください。面白いですよw


さいごに:他人を変えられるとは思わないこと

「自由のあり方」がここまで細分化している以上、重要なのは他人の掲げる自由をどれだけ許容できるかです。特定の個人の「自由」に対して常にドライでいること。


これが許容できないと、ネットワークビジネスの下っ端連中みたいになります。「私があなたに提案する自由はあなたにとっても素晴らしいものに違いない!」みたいな。で、断るとキレてくるみたいな。


自分にとっての理想の自由のあり方を発信することは良いことです。その過程で何をどれだけ批判しても、倫理的に許されればかまわないと僕は思います。インターネットだとマウンティング合戦はエンターテイメントにもなるし、やりたい人はやればいいんじゃないでしょうか。だけど、批判はしつつも、「彼らを変えてやろう」とは決して思わないことです。


僕はどれだけサラリーマンを煽っても、彼らに「自由になって人生変えて欲しい」なんて1ミリも思うことはありません。どうぞご自由に生きてくださいと思ってます。彼らにとっては、社畜であることが「自由」なのかもしれないし。そもそも、彼らが変わろうが変わるまいが僕の人生には何の影響もない。


僕はクソリプを捌くのが得意なんですが、それはある意味、彼らに対して半端なく「無関心」だからなんですよね。


例えば、ルワンダ人にルワンダ語でdisられてなんとも思わないでしょ。僕にとって彼らはルワンダ人なんです。だからアンチが現れても絶対に泥仕合にはならない。ある意味、争いの当事者でありながら、その争いから解放されてるんです。


他人の感情なんてそうそう変えられるものではありません。だからこそ彼らに対してドライでいる必要がある。それをわかった上で、「自由」を発信してくと、実は他人との競争から自由になれるんですよというお話でした。


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